晴れて2月の23日に40歳を迎えました。お祝いの言葉をくださった方々ありがとうございます*
いつもお世話になっている珈琲屋さんで、「40歳で人生終わっちゃう人もたくさんいる中で、無事になれてよかったね!」という言葉をもらい、厄ってそういう頃だよなと思ってありがたく珈琲をすすってきました。
なんだかんだやっぱり30何歳を重ねるのと二桁目が変わるのは印象が違うもので、
ひとつこの10年を振り返ってみようということでキーボードをたたいています。
断片的なもので、ほぼ思い出話になるのか含蓄のある出来事が浮かんでくるのかわかりませんが、人生の記録として進めてみたいと思います。
(もし今、仕事や関係や自立のことで揺れている人がいたら、どこかが少しでも参考になればうれしいです。)
目次
- 30歳 前の職場、最後の1年
- 31歳 転職と結婚と引越しと
- 32歳 うだつの上がらない1年間。そして33歳の転換期へ
- 33歳① Ovis Lampを立ち上げる。バイトしながら作家活動
- 33歳② 羊毛フェルトを学ぶ場と、コーチング
- 33歳③ 2人目の人生のパートナー「猫」
- 34歳 バイトと作家活動とコーチングと。最後に大事件
- 35歳 突然の不調と1年間の休職
- 36歳 復職と試行錯誤
- 37歳 若者就労支援の仕事、作家活動、コーチング
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30歳 前の職場、最後の1年
それ以前に数年いた店舗から異動して、別の土地で働いている時期でした。お店の規模も大きくなり、役職も変わり、その土地の人の「初め人見知り、後家族」みたいな距離感に驚きながら、祖父母の故郷に近い土地にいることが楽しく過ごしていました。
20代は自分迷子の闇期だったので、少しは気持ちも変わるかなと少し期待をしていましたが、自分の心はそんなに簡単に前を向いてくれませんでした。数字にも役割にも生産的な気持ちが持てず、日々最低限(と思っている)のことをこなす以上のことができない日々の中、転換点となる夜を迎えます。
今でもよく覚えている光景。夜な夜な家の近くのカフェで、雑誌の照明特集を読んでいた時、「お金も経験も時間も、全部関係なかったら照明を作ってみたいなぁ」という気持ちが確固として現れ、「辞めよう」と思うに至った日でした。照明や光は自分にとって、人との対話を支えてくれるものでした。この想いは、当時から今も変わっていません。
ただ照明を作ろうとする時、この会社では実現するには運次第のところがあったので、自分で始めた方が早いと思ったのです。
そして帰り道に偶然見た流れ星。流星群の時期でもないあの一筋は、勝手に後押ししてくれているように思ったのです。
そんな意思を固めたその年は、いくつかの選択肢が訪れていたのを思い出します。
一つは、ある制度で海外の仕事に関わるお話をいただいたこと。英語力もなにもなかったですが、この世界を続けるくらいなら、飛び出してみてもいいんじゃないかと思っていました。しかし残念ながら有力候補はすでに埋まってしまい、実現とはなりませんでした。
そしてもう一つは、以前体験プログラムに一度参加して、とても印象深かった会社さんからのお誘い。お呼び立ていただき、なにか新しい体験プログラムかなと思って訪問すると、まさかの「働きませんか」のお誘いをいただきました。
全然予想していなかった展開に驚きながら、今考えている自分の今後をお伝えさせていただきました。結果としては辞退を申し上げ、「照明をつくってみたいんです」という夢を伝えると、あぁ大人ってこういうことなんだと思うくらい、丁寧に話を聞いてくれて、応援しますと声をかけてくださいました。
その時交わしたやりとりを果たせていないことは未だに申し訳なく残っているのですが、たいした実力もない若者にそんな提案をしてくれる人たちがいるんだという体験は、当時の自分にはとても励みになったことを覚えています。
そしてその次の行き先は、照明工房への転職でした。うちで働いてみたらとお声がけをいただいてからしばらく。人生の方向性を決めるには弱すぎた意思を乗り越え、お世話になるお願いをお伝えしたのでした。
そんな日々を経て、30歳のぼくは前の職場を退職することを決めます。
31歳 転職と結婚と引越しと
転職を決めれた大きな支えとして、妻の存在があります。付き合って半年ほど、その期間の大半は遠距離恋愛だったころ、電話で「仕事を辞めてやってみたいことがある」と相談します。
彼女の中にもいろんな状況や思いがあったのでしょうが、答えとしては「ついてきてくれる」というものでした。驚きました。こんな今後どうなるかわからない人生についてこようとしてくれる人がいるなんて。収入だって10分の1、実力もなにもないスタートになるだろうというなかでその回答をもらったときは、一生の借りができたと思いました。
そして半人前にも満たない自分と1人前とは言わない彼女と、二人で1人前になれたらという思いもあり、結婚を決めていきました。(この点はのちに大切な選択をする要因になります。)
そうして転職の準備をしつつ、婚姻届を出しにいき、そして引越しをこなすという、「それ同時期にやるもんじゃないでしょ」と大体の人が思うであろう時期に突入していきます。あの頃はそれがベストの選択だと思っていたので、なんだかんだこなしていけてたんですよね。少なくともぼく自身は。
そうして始まった新しい生活。仕事も大きな会社から自分入れて数名の工房仕事に変わります。ものづくりの「も」の字の一画目も知らないような自分にとって、新鮮なことだらけという綺麗な言葉では片付かない、難しい日々となっていきました。
これまでの前職で3年かけてやるようなことを半年でやるくらい求められている(そんな感覚だった。実力無かったので)ようなスピード感と、まだヤワヤワだった「照明つくりたいな」と思う気持ちを叩き上げられる雰囲気。
自分の中から浮かんでくるのはどれも陳腐なアイデアばかりで、発想を鍛える手段もわからず、今振り返るとずっと自己肯定はできていなかったでしょうね。出来高制では収入も増やせず、貯金もどんどん削れていき、個人で仕事をしていくという人や世界の厳しさについていけず、そこから這い上がるという方法は、ぼくには向いていなかった。というのが、まず思い返すと浮かんでくる気持ちです。
そういえば、初めてくらいの出店の時に、とある人に「この人は個人でやっていけないでしょ」と言われたことが今でも記憶に残っています。当時としては自分でもやっていけるようになりたいと思っている時なので、なんてこと言うんだと思いつつ、どこか見透かされたようなその言葉は今でもどことなく楔になっている気がします。わからないものですね、人の言葉の残り方って。
それでも社長には根気強くたくさんの経験をさせていただきました。いろんなものづくりをさせてもらったり、いろんな現場にいかせてもらったり。中でもどうにも声を出せない時、とことん2時間も3時間も話に付き合ってくれて、ぐるぐると堂々巡りしてしまうぼくのその時に寄り添ってくれました。やることが盛りだくさんのなか、作業の手を止めて、付き合ってくれる大人がいるということ。この体験は今でもとても大切にしているものです。
対話をするときに、大人の事情を脇に置いて時間を費やしてくれること。灯りづくりに関しては恩を返せることができていないですが、この費やしてくださった時間は、ぼくは次に繋げていきたいと思っています。今目の前にいる若者に、手を止めて、体を向けて、話を聴ける自分でいるようにと。
32歳 うだつの上がらない1年間。そして33歳の転換期へ
32歳の1年間は、どうでしょう。あまり良い印象としては残っていません。全てはありがたい経験をさせていただいたとは思いますし、抱えてもらっていた会社には大変申し訳ない気持ちですが、自分としてはものづくり作家として高まれない自分がずっといて、日々のプレッシャーから逃げたくてしょうがなかったのだろうと思い返します。
会社に沿ったセンスが出せず、社長ほどに製品に対する理解も届く気がしれず、生産性もデザイン性も上げられない自分に自信はまったくついてきませんでした。ハンドメイドイベントに何度も出展しても実績は運次第で安定せず、毎回の報告がとても辛かった。
そんな日々が続き、人目を盗んで仕事を離れないと、耐えてられないメンタルだったんじゃないかと思います。原因としては、自分のモチベーションの源泉が自分でわからなかったこと。やりたい気持ちはどこかにあるのに、なにをどうしたいのかわからない。言語化できるほどの力強さがない。アイデアも出せない。作家としても職人としてもパッとできない。お金はどんどんなくなっていく。貯蓄も切り続けていく。
自分で選んだ道なのに、人を巻き込んできた環境なのに、前にずんずん進んでいけない自分をどうしたらいいかわからず、改善するだけの気力も湧かせられず、自信は一向に増えていきませんでした。
それでも、そんな中でも、ものを作るのは楽しかったんです。木を削ったり、配線をはんだ付けしたり、金属加工をしたり。実作業は楽しかった。やったら形になって、繰り返したら上手くなっていくその行為が好きでした。失敗したら一辺に材料代と人件費がロスになるという恐さがありつつも、淡々と作っていられたらと思う日々でした。
そんな様子を見かねてか。ある日社長から「ここから離れて一人でやってみたら」と伝えられます。年明け前後だったでしょうか。
あぁここではダメなんだという気持ちも湧きつつ、これまで経験させていただいた作業や動きを自分でやってみたらという思いも感じたのです。
今思えば、いろいろと萎縮していました。あまり得意ではない男性性優位の環境だったり、求められるスピード感や成果だったりは、個人事業をするものとしてなくてはならないものだと思うけど、自分の資質としてはあまり合っていないんだろうなと。
お世話になった分の貢献ができずにいる申し訳なさを感じつつ、その頃から工房を離れて独立していく方向に進んでいきます。

33歳① Ovis Lampを立ち上げる。バイトしながら作家活動
独立するにあたり、なにをしたいかに向き合いました。「本当に灯りを作りたいのか」というところから始まり、それがクリアされたら「素材はなにがいいのか」。
工房では主に木材・アクリル・金属を扱っていました。ただ、どれをやるにも工具機材の場所が必要でした。独立するにあたり、作業場は自宅の一部屋。木を削る工具を設置する場所なんてありません。自分がやりたいのはなんなのか。石、布、ガラス、金属、どれをやるにも場所と道具が必要でした。
そんな中思い出したのが、羊毛です。最初に羊毛に光を当てたのは、20代後半の頃。自分の灯りを自作しようとホームセンター通い、ネットで羊毛を取り寄せて「へーこんなかんじで光るんだ」とお試ししていたのでした。それから羊毛には手をつけていませんでしたが、改めて光を当ててみると、なんともいえない陰影に惹かれました。
そして羊毛フェルトならば自宅のテーブルでものづくりができる。大きな道具も必要なく、初期投資も少なく始められる。そんな要件も相まって、YouTubeで羊毛フェルトの作り方をみては見様見真似で作り始めます。
最初の頃の試作品なんかはへにゃへにゃで、単なる遊びみたいな作品でした。それでもそこに広がる光や陰影には可能性を感じて、いろんな羊毛種類を取り寄せては、自宅の床でゴシゴシとフェルトランプを試作していきました。
そうしていくつか形になった灯りを、最後の工房の出展のときに並べていただきました。初めて一目にさらす自分の作品は、どうにも荒削りすぎて買っていただくには程遠いものでしたが、それでも自分のできる限りで、並べて灯して、説明をしました。
そのときのレジ係の方が、「いつか良いものになると思う。応援します。」と言ってくださったことに、どれほど励まされたかわかりません。
そしてなぜか通りかかった以前の職場の後輩と、SNS見たと言って訪ねてくれた別店舗時代の先輩と再会をしました。人生って不思議で、あたたかいこともあるんだなって思って、とても嬉しかったです。
そうして工房を離れ、作家活動を始めます。生活費を稼がねばならないのですが、なるべく作家活動の方にエネルギーを注ぎたい時期。
そのために選んだのが、これまでの小売の経験を活かして働ける派遣のお仕事。これならやることが身に染みているので、新しいことをあまり覚えずとも生活費を得られると思ったところです。これまでの経験を活かして、仕事を選ぶということを初めてした実験だったと思います。
ここでのアルバイトはとても人に恵まれます。いろんな経験やスキルを持った人が集まっていました。WEB制作や芸術やものづくりなど、いろんな能力をもった人との交流はかけがえのないものになりました。
一方で作家活動としては、制作と出展を進めていくことになりました。一番最初の出展場所は、ある地域でした。選んだ理由は、羊飼いの人がいそうな地域だったから。素材は羊毛だし、なにか繋がりができたらいいなという思いから応募したところです。
しかし応募したイベントが、まさかの現地抽選での選考で。応募するだけでも現地に行かなきゃいけないのかと思ったのですが、なんとなくおもしろそうで本当に現地まで抽選会に参加しにいってしましました。
そうして無事に選考が通ると、このまま帰るのももったいないなと思って、近隣のギャラリーを検索します。その地域にはたくさんのギャラリーが存在していて、なにか勉強になればと思って検索して行きついたのが、それから長らくお世話になるギャラリーでした。
初めてのギャラリー。どこから来たんですか?とお聞きになるオーナーの方に、実はものづくりイベントの抽選のために来たんですと話すと、どんなものを作ってるんですかと聞いてくださり。
その後、別の方も現れ、作家の右も左もわからない若造に対して、「もし今度こっちにくる時には作品を持ってきてください。見て差し上げます」と声をかけてくださいました。まさかそんな展開になるとは思ってもおらず、ギャラリーとはなんぞやもわからずに「ありがとうございます!よろしくお願いします!」と返事をして帰宅しました。
あの出逢いはなんだったのでしょう。とても不思議で、ここでも「大人」の対応を体験させていただいたのでした。
その後イベント出展のため再びその地域を訪れ、初めての自身の作品のみの出展を行います。作品数はたった3つ。とてもとてもスペースが埋まるものではなかったですけど、精一杯説明してきました。
その足でギャラリーに向かい、作品をご覧いただきました。そのお返事は、「うちで置いてみますか」とのこと。そんなことがあるのかと思いながら、二つ返事でお願いをし、そのギャラリーで扱っていただく運びになりました。
こんななにもない者に目をかけてくれて、希望も与えてくれることに感謝しきれない想いでした。(その後、懇切丁寧に作家としての姿勢や必要なことをご指導していただいていきます。)
33歳② 羊毛フェルトを学ぶ場と、コーチング
この年、今日まで続く出会いが2つありました。日本羊毛フェルト協会と、コーチングとの出会いです。
羊毛フェルトは、それまでYouTubeを観ての独学で制作をしていたのですが、これは基礎を習った方がいいと思い、検索したところ見つけた場でした。都内の会場で、男一人受講したことを思い出します。この頃から属するコミュニティーや勉強会・コーチングにおいてもなぜか男ひとりっていうパターンが増えていきました。なにか相性があったんでしょうね。
ニードルフェルトとハンドメイドフェルトという羊毛フェルトの基礎を半年くらいかけて覚え、さらにここは「作家として活動していけるように」というカリキュラムだったので、一人で始めた灯り作家活動についても後押しをしていただくことができています。もう長いお付き合いになります。ありがたい限りです。
そんな中、「わたしのひつじ」という過去今未来をひつじを描いてビジュアル化するワークがありました。そこで描いた未来は、
「自分は喫茶店みたいなところにいて、裏庭には作業ができる小屋がある。
その喫茶店にはちょっと人生に疲れたり、自信がまだなかったりする人が訪れて、一杯飲んで一息ついて帰ったり、相談をしたりして元気を取り戻して日常に戻っていく。
自信がなかったら喫茶や作業の手伝いをしてもらえたり、掲示板には仕事紹介の案内が貼ってあったりする。
そんな場所に自分はいる。ものづくり屋として、話を聴く人として。」
という未来でした。
そうすると先生が、「私は今コーチングを習っているんだけども、あなたもやったほうがいいんじゃない?」と言われて、初めてコーチングというジャンルを知るのです。紹介されるまま、コーチング実践練習会に参加します。
そこでは比較的歴の長い人がコーチングの練習をしていて、はじめてセッションをみた時は「なんてテクニックのいる対話なんだ・・・」と驚いたことを思い出します。始めのコーチングの印象はテクニカルな対話。これは後々変化をしていくことになります。
そんなこんなで、コーチングにも魅力を感じたぼくは、羊毛フェルトを習いつつ、コーチングの勉強会にも顔を出し、作家活動の制作出展をしながら、派遣の仕事をするという生活になっていきます。
そんな生活をするなかで、本当にたくさんの出逢いに恵まれていきます。作家として作品はもとより、ロゴとか冊子とかをデザインする自分に出会ったり、いろんなマルシェ、ある温泉宿、海外旅行などなど、これまでの人生以上の広がりを味わっていくことになりました。
たぶん、違ったのは自分のマインドでしょう。これはという灯りと感性・意思を携えながら出逢う人々はみんな良い人ばかりです。自分の気持ちの違いで、こんなにも繋がり方が違うのかと、今思っても不思議でなりません。この経験を活かして、巡らせていきたいと思っています。
33歳③ 2人目の人生のパートナー「猫」
そうやって過ごしていたある年の10月末。人生を変える出逢いが起こります。わが家の永遠の2歳児な猫との出会いです。
出会った場所は、ある温泉地にある宿の駐車場。ここに来た経緯はご納品です。その帰り際に、駐車場に後ろ足を折って座っていたのが猫でした。
その宿へのご納品は、あるマルシェでのご紹介。マルシェは作家活動をしていなければ出展しておらず、その最初の接点は工房時代に出展していたイベントです。まさに過去のどのタイミングが欠けても出会わなかったものでした。
動物を飼うということは、その後の生活が一変します。当時住んでいたアパートもペット禁止。どうしようかと悩み、猫に詳しい先生に電話をしたりしながら、
「保健所に預けても引き取り手なんかないだろう。このまま放っておいても生きれるかもだけど足は治らないかもしれない。最悪のたれ死んでしまう。」
そんなことを考えていたら、おいていけなくなりました。生活を変える覚悟がこのとき生まれました。
でも妻にはすぐには言えず、「帰ったら話がある」とだけ伝えるのが精一杯。妻は人でも轢いたんじゃないかと思ったそうです。
そうして猫を連れて帰り、紹介してもらった獣医さんですぐに手術をし、ペット禁止だったアパートを変えるために急いで家探しを始めました。10月末に連れて帰り、12月1日には引っ越しています。その間の記憶があまりありませんが、初めからよく懐いてくっついてくる猫の印象だけは覚えています。
その年末から翌春にかけて、自分の顔中にトビヒのような症状が広がって、顔が爛れてしまいました。免疫落ちてたんですかね。懐かしい思い出です。
34歳 バイトと作家活動とコーチングと。最後に大事件
この年は派遣の仕事と作家活動の両立で進んでいきます。コロナで世の中が大きく揺れた時期ということもあり、いろんなイレギュラーも多い時期でした。
その中でも、灯りのワークショップに力を入れ、いろんなところで開催していました。マルシェやお客さんのご自宅、ある珈琲屋さん、オンラインでのキット制作など。そして今にもつながる若者支援の現場でのワークショップもこの頃開催しています。このときはまさか自分が職員になって働くとは想像もしていませんでした。この頃から顔馴染みの方も何人かいます。うれしいものですね。
コーチングの学びも進めていて、個人講座とセッションを受けて自己理解・受容・向き合い方を練習していたように思います。この頃はまだコーチになろうというよりか、コミュニケーションがうまくなれたらという気持ちが大きかったです。
それぞれの領域で、学びと活動をあれこれやっていた時期でした。
そして最後に大事件。猫、脱走です。
それまで腕の中に抱いていれば大人しいほうで、外にも抱いていれば外の空気を味わうなんてことができる子でした。ただ、その夜だけ違ったことが起こってしまいました。お向かいのおじいさんが扉から突然出てきてしまって、それに驚いて腕の中から逃げ出してしまったのです。
あの時の後悔。今でも忘れられません。追いかけてももう姿は見えず、探し回ってもまったく気配もない。絶望。
もはや自力での捜索は無理だと思い、お金をかけてペット探偵にお願いしました。その上でチラシを作って近隣のお宅に渡しに行ったり、お庭に入っていいか伺いに周ったり、深夜に交代で見回りにいったりと、あの時どうやって寝て過ごしていたのか不思議です。死に別れではない生き別れの辛さを味わう期間でした。
結果的にペット探偵の方が見かけてくださり、近辺に罠をしかけて運良く再会。見つけたのは深夜の見回りのときで、単なる似た猫なんじゃないかとドキドキしながら連れて帰り。
彼、後ろ足少しはげてるんです。それを見つけた時の安堵といったらありませんでした。合計6日間。きっと何も食べてなかったんでしょう。だいぶ体重も落ちていましたが、バクバク食べ始めた時は本当に安心しました。
まだ一緒に生きていける運命でよかった。本当に。
35歳 突然の不調と1年間の休職
家族がある日、もう仕事に行けないと言ってくれました。当時は突然だと思っていたけど、今思えばそれは突然ではなく蓄積だったんだと思います。
それまでの数年間(そしてその後も)、自分の働き方を追求するあまり、大丈夫だと思っていたけど大丈夫ではなかった負担を、かけ続けてしまっていたんだと思います。
身近な人のメンタル不調とのお付き合いは手探りで、相手への関わり方と同時に自分のコントロールと変化も必要なことでした。それをするにはまだまだ未熟で、ときに相手に関わりすぎたり自分をうまく処理できなかったりしながら、日々を過ごしていました。
ちょっと気分転換に出かけようとか、なんか楽しいこと探そうとか、ちょっとできることお願いしようとか、いろいろ考えてはやってみて、でも相手にとってはどうなっているのかわからなくて不安で、うまくできないなどうしたらいいのかなって考える日々でした。
あまり気にしないように、相手にまかせてって、何度も思い直そうとしては少し崩れてまた思い直してと。時間を気にせず、そばにいることしかできないんだなぁって。教えてもらいました。
そんなこともあって、自分も変わらなきゃと思い、作家活動では「ペットの灯り」というサービスを、コーチングでは国際資格を取るコースを受講することを始めました。どちらもより自分の活動を強くするために、少しでも収入を増やしていけるように、自分をしっかりさせるためにも手をつけていきました。
そうなってから手をつけるのでは遅いといえばその通りなのですが、このままではいかんという気持ちは、ときに心を前に進めてくれるものでした。
さらにそんな中、年末に勤めていた派遣先で雇い止めが行われ、その対象となってしまいました。定期収入の線が絶たれてしまいどうしたものかと思っていたところに、知人から「一緒にアトリエを借りないか」とお声がけをもらいました。
そうこうしているうちにアトリエの改修と契約が終わり、まさかの自分アトリエ生活が始まります。それを機に、自分の仕事だけでどれだけやれるのか、やってみようという挑戦にしました。
こう書いていると、この状況でそこ一本でいこうとするのってなかなかです。それでもその時はそうするべきだと思ったんですよね。結局その一本生活は、1年ほど続けることになります。
36歳 復職と試行錯誤
作家活動としては、これまで以上に出展回数を増やしました。身内のものから新しいものまで、いろんなイベントに参加していきます。
その時その場所で出会う人も良い人が多く、お買い上げいただくことも増えていきましたが、長年うまくなかった販売が引き続き、十分に暮らしていけるだけの収入には大きく届きませんでした。
灯りという少し特殊な商材であることや、羊毛というこれも灯りとしては特殊な素材を使っていることもあり、その表現や伝え方を追求しきれていないことも大きな要因だと思います。
当時は、「自分は個人でやっていけないのではないか」という言葉が頭から離れませんでした。
でも今振り返ると、それは能力の問題というよりも、環境と自分の特性が合っていなかっただけだったのかもしれません。
一方で、コーチングの資格取得はどんどん進んでいきました。いろんな人のご協力もあり、資格取得に必要な100時間セッションもでき、パフォーマンス試験・筆記試験と通過していきました。
周りからのアドバイスや評価もいただくなかで、「自分にとってのできることとやりたいこと」の区分けを考えるようになっていきました。
灯りづくりはお金には変えにくいけど楽しくてやりたいこと。
コーチングは生まれ持った性格からやりやすくできるもの。
その二つの柱をどうミックスしていくか。
そんなことを考えながら、自分の生活を見直していきました。
資金的にもデッドラインを迎える算段となってきたころ、自分仕事一本生活は中断し、あらためて仕事を探そうとしたときに再開したのが、若者支援のNPOでした。そう、過去にワークショップをさせていただいた場所です。
ここに応募したのは、ものづくりで誰かの役に立てて、さらに学んだ対話支援(コーチング)がクロスして役に立てるのではないかと思ったから。口づてで応募するのは違うと思い、通常通り一般採用から申し込んで、無事採用していただく運びになりました。
そうしている中で、家族もなんとか求職活動を始められるまでになり、再び仕事に就く暮らしに戻っていきました。
37歳 若者就労支援の仕事、作家活動、コーチング
ここから2年間は、NPOは週3日、作家活動はアトリエや出展で、コーチングはオンラインでというハイブリットな動きになっていきました。
若者支援の世界は、本当に多様な人がいることを身をもって体感させていただき、その本質性や重要性を日々感じます。それは現在でも変わらず、むしろより大切さを感じているところです。
本人の特性、親との関係、親の親との関係、学校でのこと、社会の中でのこと、行政の範囲、心理、福祉、企業、本人理解、傾聴、モチベーション、受容などなどなど・・・さまざまな領域がそれこそリアルタイムでいろんなところで顔を出す、とても複雑なお仕事だと感じます。
人と触れ合う時間も長く、面接の時に聞かれて印象的だったのが「自分を回復させられますか」という質問だった。自分のケアの方法を知っていないと、この仕事は長くは続けられないだろうと思います。そういった意味でも、自分自身のケアは大切です。
そのケアの一つになっていたのが自分にとっては灯りの活動でした。アトリエで淡々と過ごす時間はそのときの自分にとっては癒しのような時間で、静かに過ごすことができるお気に入りの時間と空間でした。同居人との話も楽しく、精神性のある世界に身をおける豊かさを味わうことができる時間でした。
またコーチングは資格取得を活かし、継続して受けてくださるクライアントさんに支えられながら、プロのコーチとしての活動を続けていきます。コーチングの探究も楽しく、倫理規定やコアコンピテンシーに関する勉強会などにも参加したり、引き続き他のコーチの講座に参加したりして研鑽を積んでいきました。
コーチングで出会う人たちもいい人が多く、羊とコーチングでつながる人はみんないい人というのが今も変わらない持論です。
その3本柱でなんとかかんとか暮らしていけるような形になっていきます。この頃のGoogleカレンダーは、月に3日くらいしか何もない日がなかったようなかんじでした。心配で予定を入れ込んじゃって休みがうまく使えないやつでした。
38歳① お金出しきれなくて講座一切受けなかった時期。そして自分の講座をつくる
タイトルのように、この一年はおそらくほとんど学びの講座を受けなかったのではないかと思います。主にコーチングの講座ですが、けっこうなお値段がかかります。それを続けようとしたらなおさらです。
なので、これまで学んだ講座のノート・これまで買った書籍・セッションノートなど、今ある素材の復習をしていました。新しい本はどんどん出てくる、新しい講座もどれだけでもある。
でも、これまで使ったものを「本当に使いきれているんだろうか」と自分に問うた時、答えはNOでした。まだまだ使いきれていない。なんなら置き忘れてきている。これだけいい講座や本があるのにもったいないじゃないか、と。
そうして復習をしながらあらためてまとめ直していく中で、「コーチングを説明する冊子があったらな」と思い、「だれかに見せながらコーチングを説明できる冊子づくり」を始めました。そうして出来上がったのが、のちに自身の講座の大元になる「コーチングエッセンスとスキル」という3冊の冊子です。
これは、コーチングを自分なりに分解して再構築して、そのエッセンスを1文と説明文にまとめたものです。イメージとしては、コーチングを学ぶ前の心構えといったかんじです。
それをしばらく携えていたのですが、とあるコーチ仲間から「講座やったらいいよ。」と言われ、「やる時がきた」と思って始めたのが自主講座の始まりです。
結果的にコーチングエッセンス全17章・1ヶ月に1章だったので17ヶ月開催させていただきました。初めての連続講座。最初から最後まで参加してくださった方も複数いらっしゃり、感謝でいっぱいです。
38歳② 家族の病気
この年の年末、家族が命に関わる出来事に見舞われました。
日常が一瞬で非日常に変わる体験でした。
身近な人の命に関わる状態というのは、気づかないハイテンション状態が続きます。アドレナリンが出続けて、いわゆる危機対応状態となるのです。
その中で、「家族が病気になった時は、今まで以上に自分を労ってあげないといけない。そうじゃないと、今は大丈夫でも半年後一年後にダメージが来てしまうよ」とアドバイスをいただけたのは、とても救いでした。
そのとき初めて、「支える側も自分を労わらなければ倒れてしまう」という意味を、本当の意味で理解しました。危機のあと、静かに自分を立て直す時間が必要です。
そんな日々を過ごしながら、家族からあることを告げられます。
39歳 別々で暮らす
39歳のとき、夫婦で距離を取り、それぞれに暮らす選択をしました。
どちらが正しいかではなく、より健やかな関係でいるための選択でした。
あのとき痛感したのは、結婚当初に思っていた「二人で一人前」ではなく、「一人で立てる二人でいる」ということの大切さでした。いまもその実践の途中にいます。
今の現状としては、なんだかちょっと昔に戻ったような前向きな気持ちで会えることが増えたように思います。
相手の生活の選択を干渉することが減り、楽しく過ごせる時間と距離感が増えるようになりました。その中で新しい仕事をいただき、生活の優先順位を考え直したり、精神的にも経済的にも自立して過ごすことの意味を考えて取り組んでみたり、トライを繰り返した一年でした。
相手を信じること。自分を大事にすること。力をつけること。
この辺りがテーマだったように思います。派手ではない暮らしでしたが、地道にコツコツと育んでいて、ここはまだまだ実践中。今後一層成長させていきたいところです。
40歳 実力をつけていきたい
年末。今年の振り返りをする前に今後の展望をAIとやりとりしていたせいで、年末年始のご挨拶投稿をする機を逸してしまったのですが、今年は実力をつけていく年にしたいと思っています。
自分の今の周りに現れている出来事は状況を受け止め、その流れのなかに活路を見出す。それを実践していく。そう想像しています。未来のひつじを心におきながら。
そしてこの歳が変わる前後で、再び家族が入院するかたちになりました。人生、いつなにがどう起こるか本当にわからないです。
だからこそ、今を大事に、楽しく過ごせる時間を大切にすること。
そういう自分でいられるように自分を育んでいくことを大切にすること。
そう思いながら、40歳の誕生日を迎えています。
セッションのご案内)
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
もし今、
- 仕事や生き方を「立て直したい」
- 自分の軸を整理して、次の一歩を作りたい
- 支える側として疲れすぎない関わり方を身につけたい
- 目の前の現実を受け止めながら、“どうありたいか”を取り戻したい
そんなテーマを扱いたい方がいたら、コーチングでもお手伝いしています。
▶︎ コーチングのご案内(募集リンク)
【 Webサイト「灯りと対話」】
(初回は状況整理だけでも大丈夫です。合う合わないも含めて、ご無理なくどうぞ)
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